戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎

電気的迷宮のフォトコラージュ

The Photocollage from the "Electric Labyrinth"

ミラノ・トリエンナーレ'68からヴェネチア・ビエンナーレ'96へ:廃虚としての未来都市

From Milan Triennale '68 to Vennice Biennale '96: Future City in ruins

下文は『20世紀建築研究』(INAX出版、1998年7月発売予定)に寄稿した小論の転載である。

電気的迷宮のフォトコラージュ ― ミラノ・トリエンナーレ'68からヴェネチア・ビエンナーレ'96へ:廃虚としての未来都市


ミラノ '68
1968年という象徴的な年に開催されたミラノ・トリエンナーレにおいて、一枚のフォトコラージュをもって磯崎新[☆1]は「未来都市は廃虚である」と予言した。
原爆投下直後のヒロシマの光景にひしゃげたメガストラクチャーを合成したそれは、「エレクトリック・ラビリンス」と名付けられた迷路状のインスタレーションの内壁一面を成すスクリーンにブローアップされて展示されたものである。迷路部を成す16枚の湾曲したプレクシ・ガラスのパネルは自動回転ドアの如く入場者の位置に合わせてクルクル回る仕掛けで、それぞれに江戸期の妖怪の浮世絵や地獄絵図、被爆者たちの写真などが貼られていた。鑑賞者はさながらお化け屋敷か磯崎が絶賛のミラーハウス[★1]のような体験に放り込まれる。そしてスクリーンの写真の上には、60年代初頭の日本で作成された未来都市計画が3つのプロジェクターで代わる代わる投影され、「バラ色のユートピアしか描きださない近代的都市計画を批判」するものだという解説が流布されたのであった。

〈五月革命〉
このときの展示会場は〈五月革命〉[☆2]によるコンテスタシオン(異議申し立て)の波を受け、トリエンナーレという既成の制度の枠に収められていたということのみよって開会式の日に占拠された。この〈革命〉は中国における文化革命が飛び火したことによるもので、あらゆる次元での制度空間や伝統的形式の持つ権力性を攻撃した。3月22日の勃発時点ではじめて占拠されたのがキャンパスに高くそびえる「権威の許しがたいファルス的シンボル」と目されたナンテール学部の教授会会議室で、制度的文学の本拠地として作家たちによる文学者協会事務所も占拠された。街の建物にも「広告資本に占有された空間の目的変更」を意図して壁にポスターが埋め尽くすように貼られ、「宮殿や寺院といった権力空間と結びついた絵画の伝統的コードを問い直す」という操作のために道路にチョークで絵が描かれたりもした。
この運動が必然的に要請したのが、いっさいのいわゆる「大文字」になった、すなわち形而上学と化した概念への死の宣告であった。〈芸術〉、〈建築〉、〈美術館〉、〈構造〉、〈左右対立〉、〈人間〉、〈中心〉、〈西欧〉などの諸概念が、すべて失墜した。当時のスローガンにはこの宣告が声高にうたわれている:「最も美しい彫刻、それは砂岩の舗石だ」、「文化とは生の倒錯だ」、「私の欲望こそ現実だ」、「オブジェよ、消えてなくなれ」、「美は路上にあり」、「芸術、それは糞だ」、「芸術は死んだ。私たちの日常生活を解放しよう」。
海老坂武はこの権威に対する「コンテスタシオン」の背景について、「パロールの氾濫にみられる『主観性から主観性への連続的爆発』あるいは「〈私〉の噴出という」、並びに「創造の次元での共同性に対する価値付与」という、一見矛盾しかねない二つのモメントを挙げ、これを統合する「複数主体の確立」という理念が掲げられたとしている[★2]。
この目標は想像と欲望の復権要求という、目指されるべき一つのユートピア像であったが、〈芸術〉をはじめとする大文字の諸概念に対して、これに相対するヴィジョンでもって淘汰・進化やアウフヘーベンをもたらすという弁償法的な歴史観そのものの「終焉」が、回顧的な視点から見れば、既に始まっていたのである。東西冷戦の終結やベルリンの壁の崩壊とともに、1989年を転回点として、〈イデオロギー〉、〈歴史〉、〈社会主義〉、〈東西対立〉などの概念構造そのものが「終焉」した。
トリエンナーレが〈五月〉の革命運動によって占拠されたことはある象徴的であって、磯崎のフォトコラージュは旧来の近代主義のみならず、〈五月革命〉が掲げていた共同性の理想すらもその終わりを予告していたのである。それは1968年という象徴的な年に、1995年に日本で露呈する状況を描き出していた。これは偶然ではなく、極めて意識的な帰結であったと磯崎は記している。
「『未来都市は廃虚である』という黙示録的な視点がここにはある。このコラージュがつくられてから四分の一世紀後に、偶然に阪神淡路大震災を私たちは体験したが、都市は再び(ヒロシマと)似た光景を呈した。私にとっては予言ではなく、むしろ論理的な推論の結果であった」[★3]
この「論理的な推論の結果」を現実と照合するかのように、磯崎は日本館コミッショナーを務めた1996年のヴェネチア・ビエンナーレ建築展において阪神大震災をテーマとし、再び廃虚を展示した。それは占拠さてしまった68年の予言、あるいは「推論」の勝利宣言であり、大量の建築的な計画案を並べた他館を征してパビリオン賞を受賞してこの勝利に華を添えた。

ヴェネチア '96
出入口以外壁面に開口のない16メートル角のシンプルな箱である日本館は、もともと採光のためのガラスブロックで敷き詰められていた天井の梁間はすべて黒く塗りつぶされ、壁面は写真家の宮本隆司[☆3]により天井高にまで引き延ばされた阪神大震災の被災地の写真で覆われた。そして床は全面、建築家の宮本佳明[☆4]が被災地より運び込んだ瓦礫で埋められ、腐った畳をつなげて設けられた観客動線の両側には石山修武[☆5]が作成した電子部品の幽霊のようなオブジェが二つ置かれた。この二つのオブジェからは、震災当時のテレビ報道の音声よりサンプリングされた現場中継のアナウンスと被災市民の嘆きの声がそれぞれ流された。またピロティに貼られたテントの中には電話機がおかれ、呼び出し音がひっきりなしに鳴るそれから受話器をとると、多言語が入り交じった壊れたような報道音声が再生された。
宮本は震災を直に体験した被災市民であり、建築家としても瓦礫によるランドスケープの計画案を制作するなど、その現場に強くコミットしてきた。しかし、その廃虚ないしは焦土に対するまなざしは磯崎のそれとかなり異なるといえる。14歳の夏に終戦を体験した磯崎があくまで焼跡を心理的傷痕として刻印され、「つくることの悲劇」をうたうのに対し[★4]、新人類世代の建築家である宮本は、建前上は震災の記録、メモリアルに身を捧げながら、そこに廃虚に対する強い憧憬を介在させている。宮本は、日本館に再現された情景を、美しいとすら感じられたと述懐している[★5]。対して、広義の全共闘世代に属する石山は廃虚に対するオブセッションは弱く、磯崎、宮本佳明並びに宮本隆司が構築した廃虚の〈芸術〉化を防ぐべく玩具的な装置を仕組むという、カウンター・フォースを担った。
ヴェネチアの日本館の展示は、それに参画した異なる世代に属する三人の建築家の、世代的な背景をもつ廃虚に対するトラウマと、廃虚に対する反抗、そして廃虚に対する憧憬のクロスオーバーの上にもたらされた。同時にそれは、「異議申し立て」による大文字の〈芸術〉や〈建築〉の「死」の宣告から「歴史の終わり」を経て、希求されていたユートピアが廃虚によって代替されたことを「告知」するものでもあった。

☆1―磯崎新と廃虚
1931年7月23日生まれの磯崎は、昨今事件やマンガで何かと取り沙汰されている14歳という年齢の夏に敗戦の日の刻印を受けている。磯崎自身がこの日の焼跡と雲一つない青空を折に触れて自分の原風景であると記しており、このことは彼による両展示を眺める上で留意されるべき事項として挙げられよう。
「私のなかにうずくまり、これらの華々しい未来への確信をそらしてしまうひとつの点があった。それはすべての物理的実体を吸いこみ無化してしまうような空墟、であると思われた。それは闇でもあった。同時に青空であった。
少年時代に、私は日本の諸都市が炎上するのを目撃した。焼夷弾の下を獲物のように追われて、かいくぐった。それは全面的な消滅としてあらわれる。私をとりまいていた物理的実体が消えた。定常的にいとなまれていた生活も、肉親のきずなさえも、瓦礫と化した。そのあげく、少年の私をかりたてていた戦争が突然停止した。戦争は、それなりに単純な目標を与えていた。すなわちいずれくるもの、未来と呼んでよかった。それが消えたのだ。(中略)これを心理的傷痕と呼んでいいか。突然、時間が停止したあの焼跡の光景が、私が白い画面にむかうたびに立ち現れるようになった。私は建築家としての仕事を開始しようとしていた。人工的な構築物が提出されねばならないのに、その画面は空白のままだった。そして描き得たのは壊れた断片、熱によって溶融し、変形し、異形となり、偶然の結合がうんでしまった物体ばかりである。」[★7]
☆2―〈五月革命〉
1968年5月から6月にかけてフランスで起こった自然発生的な運動で、右翼/左翼、保守/革新といった区別を問わずに、既成のあらゆる権力を徹底的に解体することが掲げられた。学生の異議申し立てから始まったこの運動は、やがて勤労者一般のストライキへと飛び火し、都市部では連日のようにデモが組織され、いたるところで工場が閉鎖される事態となった。学園や企業や展覧会が占拠され、ときには都市の一部に解放区がつくられた。
この危機は、シャルル・ドゴールによる国会解散と、それに続く総選挙でのドゴール派の勝利によって、政治的は一応回避された。したがって、〈五月〉のこの運動は、中央権力の奪取という古典的な意味での革命にはあたらない。しかし、この事件は芸術・文化社会学のフィールドでは〈五月革命〉として銘記されていることに証されるように、芸術の文化における位置づけに大きな変更をもたらし、芸術の失墜を考察する際の中心的な日付となり続けるであろうとされている。
☆3―宮本隆司(1947-)
東京生まれ。多摩美術大学卒業後、住宅雑誌等のために建築写真を撮る傍ら、バラックやホームレスの段ボール住居などを被写体とする。最近は九龍城、阪神大震災被災地、サティアンなど、もっぱら廃虚の写真家として知らている。主な写真集に「建築の黙示録」など。
☆4―宮本佳明(1961-)
兵庫県生まれ。東京大学大学院修了後、アトリエ第五建築界設立。建築家・大阪芸術大学専任講師。作品に「芦屋川左岸堆積体」「相田荘」など。
☆5―石山修武(1944-)
早稲田大学大学院修了後、ダムダン空間工作所代表を経て現在、建築家・早稲田大学教授。槙文彦によって「野武士」と呼ばれた日本のポストモダン世代の一人。史家・渡辺保忠と技術者・川合健二に師事するという変則的バックグラウンドを持ち、技術の自己表現を建築的主題としつつ、日本の住宅流通を批判する作品や発言も多数。主な作品に「幻庵」「リアスアーク美術館」、著書に「秋葉原感覚で住宅を考える」「住宅道楽」など。

参照
★1―「アンケートによる戦後日本の建築」、『建築文化』1962年12月号、彰国社
★2―海老坂武「〈五月革命〉における表現の問題」、『政治と芸術』、岩波書店、1989
★3―磯崎新「磯崎新の仕事術」、岩波書店、1996
★4―「Vennice Biennale '96 日本館を演出した磯崎新氏に聞く」、『GA JAPAN 23 』、エーディーエー・エディタ・トーキョー、1996
★5―宮本佳明「『造られた廃虚』のリアリティ」、『Japan - Venice Biennale 1996 6th International Architecture Exhibition』(岡部美紀編)、国際交流基金、1996


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last update:12/2/1998