戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎

リチャーズ医学研究所

Richards Medical Research Building

モダニストたちによる歴史的引用

Historical Quotations by the Modernists

下文は『20世紀建築研究』(INAX出版、1998年7月発売予定)に寄稿した小論の転載である。

リチャーズ医学研究所 ― モダニストたちによる歴史的引用


ダクト・スペースとサン・ジミニアーノ
いわゆるモダニストやレイト・モダニストに属する建築家たちは、たとえ作中で明白な歴史的引用を行っていたとしても、その事を作品の説明から排除する傾向を持っていた。このことが、建築ジャーナリズムや自著で自作における引用の手法や意図について膨大なテクストを開陳するポスト・モダニストと彼らの決定的な違いであったとさえいえる。これは当然のことであって、歴史的引用を認めてしまったとたん、モダニスト達は彼らが依って立つモダニスムというストイックな倫理の限界を表明してしまうことになる。ユニヴァーサル・スペースを掲げたミース・ファン・デル・ローエはその基壇について口をつむぎ、ル・コルビュジエは自動車や船舶からの引用については本を著しても、地中海集落からのそれについてはほとんど語らなかった。日本建築の美質について多くの賛辞を並べたフランク・ロイド・ライト[☆1]ですら、その自作への影響については頑として認めていない。
このことは、ルイス・カーン[☆2]においても例外ではなかった。彼が明白な歴史的引用を行った最初の作品にして、彼の名を建築史に刻むことになったリチャーズ医学研究所のタワー群に関して、彼はあくまでサーヴド・スペースとサーヴァント・スペースのアーティキュレーションという、建築計画学ないしは設備学的な説明に終始した。サン・ジミニアーノやカルカソンヌからの引用なり影響なりといった説明を付加したのは、ヴィンセント・スカーリーやデニーズ・スコット-ブラウンといった、主にグレイ派[☆3]に関わる歴史家や建築家たちであった。それはモダニスムを批判し、歴史的言語を建築に取り戻させようとする彼らにとって格好の素材であったからに他ならないが、そうした文脈を超えてリチャーズ医学研究所が際だって重要であったのは、そのタワー群がモダニスムの倫理からの大きな逸脱する造形であったことによるものといえよう。レイナー・バンハムが指摘するように、それは「深く不合理」であり、加えてそのデザインの非有効性を喜び、建築的価値の決定的な説明として「建物が役に立っていない」という事実さえ主張する崇拝者も生んだ[★1]。実際、研究棟の回りに幾本もそびえ、モニュメンタルと形容して差し支えないタワー群のマッスは、その外観に反して構造的に何ら研究棟には寄与していない。このことはバンハムをはじめとする機能主義的美学の唱導者たちの非難の的となり、同時にコリン・セント・ジョン・ウィルソンが「このサーヴァント・スペースは次の世代の装飾になるであろう」と予言したように、たちまち模倣されて広まることになった。
タワーの正体は階段とダクト・スペースであった。それまでは建物の中に収められていたそれらのためのシャフトを、外に出して自立した縦長のマッスを与えたところにカーンのアイデアがあったわけであるが、これは彼が、建築家のコントロールが効かない設備や配管を非常に嫌っていたことによるものである。そこには、彼に流れるユダヤの血に少なからず根ざしていると考えられる、彼の直方体、三角形、円形といった原形的幾何学形態への追求と、それと相乗するように働いた遺跡への偏愛がある。ほとんど宇宙的ともいえる悠久の芸術としての彼の建築概念は、脆弱で短命な設備配管類をしてその原形的幾何学形態の内に建築化させしめたといえる。

廃虚に包まれた建物
シャフトのモニュメンタルな表現と共に重要なカーンの建築的発明は、二重外壁である。ソーク生物学研究所の実施されなかった集会棟ではじめて登場し、遺作となったダッカのバングラデッシュ国政センターで本格的に用いられたこの手法は、外壁を入れ子状に多重にすることによって最外殻の壁にガラスのない、自由な開口を穿つことを可能にした。この場合も光のコントロールやインドの気候・構法への対応という説明が成されつつも、カーン自身も明瞭に意識していたように、それは建築に遺跡的な外観を付与する仕掛けであった。
スカーリーの言葉を借りれば、カーンは「古代ローマの廃虚を現代の建築に変容させるという手法を発見した」のであり、その参照源は「ソーク生物学研究所以後の、カーンのほとんどすべての建築の風景と直接対応させることができ、数多くの古代ローマの廃虚の写真によって豊富に立証される」[★2]。アーメバダードのインド経営大学の地下のポルティコはオスティアのテルモポリウム、そのメインルームはハドリアヌスの市場のバシリカ、キンベル美術館はポーティカス・アエミリアの倉庫群、ダッカの国政センターはオスティアのジュピター神殿など、枚挙に暇がない。
こうしたカーンの、特にローマの遺跡に対する偏愛は、ル・コルビュジエの地中海の白い壁に対するそれがそうであったように、建築修養の仕上げを成す「グランド・ツアー」に依るところが大きい。カーンは27歳の時に約1年間にわたってヨーロッパで建築巡礼を行い、豊富なスケッチを残している。加えて重要な影響を及ぼしものとして、このツアーに先立って彼が受けたペンシルヴァニア大学でのエコール・デ・ボザールに染まった建築教育と、後のロバート・ヴェンチューリとの親交をあげることができる。
ヴェンチューリはカーンがイェール・アート・ギャラリーで一躍有名になる前の1947年に出会っており、1950年には自らの修士論文の審査会に審査員として招くほど親しくなっていた。ここでカーンが審査し、好意的な講評を与えたこのヴェンチューリの論文の主題が「建築のコンポジションにおけるコンテクスト」であったことは興味深い歴史的つながりといえる。その後ヴェンチューリはローマのアメリカン・アカデミーへの留学をはさんで1956年に9カ月間カーンの事務所で仕事をしているが、彼の妻でもあるスコット-ブラウンは、こうした彼との関わりを通してカーンが「専門家として歴史を捉える、つまり単にそれを眺めるというというのではなく、それを自分の建築のなかに用いることを始めた」のだとしている[★3]。
より大きなスパンで眺めるならば、カーンが独自の歴史的引用によって猛烈な勢いで傑出した作品群を作り出したことがペン大とイェール大学を中心とするフィラデルフィアのグレイ派の活力源となり、ポスト・モダニズムとそれによる「引用」の価値を根拠づける大きな糧となったといえる。ただしカーン本人は決して彼らと組みすることはなく、その引用はコンテクスチュアルな意味を与えられず、あくまでモダニズムが阻んだ超越性やモニュメンタリティといった建築の属性を蘇らせる作用が主体となっていたといえる。これはカーン以外のレイト・モダニストたちによる引用にも共通してみられる性格で、丹下健三による伊勢・縄文、I.M.ペイによるピラミッドなど、いずれも極めてアルカイックである。

☆1―フランク・ロイド・ライト(1867-1959)
ライトはその長い生涯と膨大な作品を通して幾度かスタイルを変えており、全体を通してみるならばモダニズムよりもアール・デコに根ざしている。それゆえ装飾や引用に関してはモダニストたちより遥かに寛容で、日本建築の影響は否定しても、1920年代には自ら「マヤ・スタイル」と称したマヤ風の装飾を施したコンクリート・ブロックをいくつかの作品で用いている。これはちょうど彼の日本滞在時期と重なっており、日本に建った帝国ホテルや山邑邸でも用いられている。
☆2―ルイス・カーン(1901-1974)
帝制ロシアのエストニアのユダヤ系の家系に生まれ、家族の移住にともなってフィラデルフィアに育つ。ペンシルヴァニア大学から引き続きポール・クレに師事した後、主に建て売りの集合住宅を設計しつつ長い無名時代を過ごした。50歳を過ぎた1953年のイェール・アート・ギャラリーを転機として、以後の20年間で多くの名作を発表、「最後の巨匠」とも称される。ヴェンチューリを中心とするポスト・モダニズムへの影響の他、彼のサーヴァント・スペース/サーヴド・スペースという考え方はアーキグラムのプラグ・イン・アーキテクチュアやその延長線上にある日本のメタボリズムにもつながったとされている。
☆3―グレイ派
スカーリーの「シングル・スタイル」を理論的支柱とし、ヴェンチューリ、グレイヴス、ムーア、スターンらを中心的メンバーとする建築思潮で、コンテクストを意識し、伝統的な様式を作中に取り込むことを唱導した。アイゼンマン、グレイヴス、グワスメイ、ヘイダック、マイヤーによって構成される、ル・コルビュジエの「白の時代」のモティーフを展開するニューヨーク・ファイヴを「ホワイト派」として、それに相対する思潮として「グレイ」と名付けられたもので、1970年代前半に両者間の論争が建築ジャーナリズムで盛り上がった。

参照
★1―Banham, Reyner. The Architecture of the Well-tempered Environment. Architectural Press, 1969
★2―ヴィンセント・スカーリーによる序文、『ルイス・カーン―建築の世界―』(デヴィッド・B・ブラウンリー+デヴィッド・G・デ-ロング、東京大学工学部建築学科香山研究室監訳)、デルファイ研究所、1992(原:1991)
★3―「Louis I. Kahn 同時代証言:ヴェンチューリ&スコット・ブラウン」(インタビュアー・黒石いずみ)、『at 』1992年9月号、デルファイ研究所
★4―オーガスト・E・コマンダント『ルイス・カーンとの十八年』(小川英明訳)、明現社、1986(原:1975)
★5―Latour, Alessandra. Louis I. Kahn: Writings, Lectures, Interviews. Rizzoli, 1991
★6―Scully, Vincent. Louis I. Kahn. George Braziller, 1962


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(c) Kaichiro MORIKAWA
last update:12/2/1998