戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎

ラブコメ都市東京

マンガが描く現代の〈華の都〉

Romantic Comedy as Tokyo: La Ville Lumiere in Contemporary Manga

下文は『10+1』12号(INAX出版、1998)の特集「東京新論」に寄稿した小論の転載である。

ラブコメ都市東京 ― マンガが描く現代の〈華の都〉


日本のあらゆる街がミニ東京と化したとき、〈東京〉はいかに描出されるのか?
東京のいたるところがマンガと化したとき、マンガは東京をいかに描くのか?
八〇年代にこうしたパラドックスが発生した頃からすでに、東京とマンガの関係は逆転していたと言ってよい。つまり東京は、マンガに魅力的な舞台を提供する側から、もっぱらマンガによって魅力的なストーリーを付与される側へと転落したのである。あるいは今や、東京への失われた魅力の充填を求めて、東京を舞台にしたマンガが読まれていると言っても過言ではない。
いわゆる「漫画」がトレンディー・ドラマに原作を提供する先駆けとなった柴門ふみの『東京ラブストーリー』(一九九〇)は、そのタイトルの秀逸さによってこの逆転を鮮やかに示す。一見昔風に〈東京〉がラブストーリーに冠されているように見えて、それは、すっかり凡庸になってしまった我らが東京に、せめて胸躍る〈ラブストーリー〉を、という期待をストレートに刺激する仕掛けになっている。
そこで展開されている恋愛物語は、『ローマの休日』に代表されるような、旧来の意味でタイトルに都の名前を頂いたラブロマンスとは性質をまったく異にし、「華の都」のきらびやかな街に演出された「アヴァンチュール」としての側面など微塵もない。東京は、地方出身の同窓生の再会というドライな機能のみがかろうじて残されているに過ぎず、その再会も劇的なものでは決してない。都市風景はあくまで平板に描かれ、華やかに恋情を盛り上げたりはしない。輝く〈東京〉がラブストーリーを喚起・修飾しているのではなく、東京を修飾するための自立した〈ラブストーリー〉がそこにある。都市風景や都市ヴィジョンに代わって、もはや凡庸なる街・東京は、幾多のそうした東京ラブストーリーズを含むコマーシャル媒体によってかろうじて〈東京〉として特化せしめられているに過ぎない。ヘーゲル史観的な言い方をすれば〈東京〉は、すでに終焉しているのである。

いくつかの蘇生の試み
ところが八〇年代以降にも、東京の景観や都市ヴィジョンを描出して作品の物語と魅力を支える舞台を絞り出し、逆転前の関係性を延命させようとするマンガもつくられはした。これまで都市論的視座から「発見」され、取り上げられてきた漫画やアニメは、ほとんどこの種の作品に集中している。大友克洋の『アキラ』(一九八二〜九〇)、押井守の『機動警察パトレイバー』(劇場版第一作=一九八九、第二作=一九九三)、そして庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』(TV一九九五〜九六)などが、主に俎上にのせられてきた。いずれもいわば、「男の子向け」の作品であり、都市破壊の描写が含まれ、宮台真司風に言えば「ハルマゲドン後の共同体」に対する夢想を下敷きとしている。これらの作品に共通しているのは、『ブレードランナー』を引用したり未来的ガジェットで粉飾したりしつつも、いずれも一九六〇年代を中心とする「近過去」の、列島改造論的ヴィジョンと高度経済成長的活力にあふれていた頃の東京に「近未来」を逆戻りさせるという方法によって、現代の〈東京〉の喪失を回避しているということである。
『アキラ』で描かれる二〇二〇年の「ネオ東京」は丹下健三の「東京計画一九六〇」のごとく東京湾上に構築されたメガロポリスで[図1]、そこでは第二次東京オリンピックの開催を翌年に控え、急ピッチでオリンピック・スタジアムが建設中である。加えてこれも丹下の六〇年代の代表作である代々木のオリンピック・プールが、作中の新興宗教の神殿のデザインに引用されている[図2]。
図1
図1―『アキラ』より、「ネオ東京」(出典:大友克洋『アキラクラブ』(講談社、1995)、(c)MASHROOM)

図2
図2―『アキラ』より、代々木のオリンピックプールを引用した神殿(出典:大友克洋『アキラ』第3巻(講談社、1986)p12、(c)MASHROOM)

『機動警察パトレイバー』の一九九九年の東京においても、東京湾上に木更津・川崎間の大突堤が建設されており、将来的にはそれを水門にして東京湾全体を排水し、そこに「コスモポリス東京」を構築するという巨大な国家的プロジェクトが進行中である(劇場版第一作)。
そして『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する、箱根に新規建設された二〇一五年の「第3新東京市」もまた、グリッド状のマスタープランの地下にジオフロントという、六〇年代的スケールの国家計画の産物である。特に、地下に収納されていたビルが戦闘が終わると地上に上昇し、高層ビルがニョキニョキと生えていくような仕掛けの描写は、建設ラッシュに沸いていた頃の東京を彷彿とさせ、未来的なようでいて色濃くノスタルジックな印象を与える。
三作品の中で描かれた近未来の東京は、いずれも夏。六、七〇年代の未来的ファッションのリヴァイヴァルと共に現れた「レトロフューチャー」なる語が示すように、もはや〈未来〉は過去にしかない。
同様な手法のヴァリエーションとして、失墜したテクノロジカル・シティの魅力をオカルトによって補おうとした作品群がある。「結界」「地脈」「地霊」「風水」などのタームに彩られ、魔物が東京の街に出没し、これを特殊部隊が退治する筋立てが特徴となっている。こちらはCLAMPの『東京BABYLON』(一九九〇〜)や佐野真砂子・わたなべ京の『トーキョー・ガーディアン』(一九九一〜)など、「女の子向け」のものも散見される。一世を風靡した武内直子の『美少女戦士セーラームーン』(一九九二〜九六、港区の麻布十番を主要な舞台としている)も、緩くはこれに含まれるといってよい。興味深いのは麻宮騎亜の『サイレントメビウス』(一九八八〜)に描かれた二〇二六年の東京で、そこにはグリッドに代わり、東京湾に迫り出す巨大な光の魔法陣が刻まれている[図3]。その《魔法陣都市》を成す円環と六芒星のマスタープランもまた、都から失われて久しい強力な求心性――死守されるべき中心――に対するノスタルジーを漂わせている。
図3
図3―『サイレントメビウス』より、《魔法陣都市》東京(出典:『サイレントメビウス THE MOTION PICTURE』パンフレット(松竹株式会社事業部、1991)表紙、(c)麻宮騎亜/角川書店)

このオカルト東京ジャンルの底本的存在といえるのが、荒俣宏の小説、『帝都物語』(一九八五)である。大手町に首塚のある平将門の怨霊を持ち出して強力な曰く因縁を東京に付し、明治四〇年から「昭和」七六年にいたる首都攻防魔術戦の一大叙事詩を展開させている。ここに発掘された戦前の「帝都」という特権的響きの魔力はまさに現在の東京の凡庸さの陰画であり、漫画やアニメ、そしてTVゲームの舞台や世界観として多くの後続作に応用された。系列の末端に位置し、同時に〈東京〉喪失回避型の最先端といえる作品としてTVゲーム『サクラ大戦』(一九九六)をあげることができる。ここでは、上野・芝・銀座・雷門など、「太正」時代の華やかなりし頃の帝都各所を舞台に「帝國華撃団」なる少女部隊によって魔物退治が繰り広げられ、ロマンスも盛り込まれる。近未来への投射を捨て、レトロな「帝都」の華やかさに徹したこの作品が、シリーズ化・ミュージカル化・アニメ化される大ヒット作となったことは象徴的である。
また、まったく別種なアプローチの首都攻防戦として興味深いゲーム作品に、近未来を舞台にした『東京23区制服WARS』(一九九八)がある[図4]。都内のさまざまな学校の女子高生たちが団結し、女子高生の制服を廃止せんと目論む敵の組織と戦うという筋立てであるが、ここでは守られるべき〈東京〉並びに都内各地のアイデンティティが、女子高生の制服のデザインによって代替されている。もはや、ハルマゲドンを待たずに東京という都市が崩壊し去った観が、ここにはある。
図4
図4―『東京23区制服WARS』(出典:『東京23区制服WARS』(マップジャパン)、「電撃PLAYSTATION 」Vol.62 1997 12/26(メディアワークス/主婦の友社)p187、(c)MAP JAPAN CO.,LTD/TAO HUMAN SYSTEMS CO.,LTD)


日常都市東京
このように、過去への遡行やオカルト性の付与などによって回避するしかなくなった東京の現状や未来に対し、それを強いられる漫画・アニメの側から恐らくもっとも露骨な批判をしたのが押井守の『機動警察パトレイバー』劇場版第二作、広告コピー「TOKYOウォーズ」である。前作と違い、季節は冬。作中ではレインボーブリッジがミサイルで破壊され、これを起点としてリアルとヴァーチュアルが入り交じったテロリズムが、東京の日常に重ねられる。ただしあくまでそれはスーパーインポジションであって、日常が破壊されてカタストロフィックな様相を呈するような描写は控えられている。首謀者である初老の元PKO自衛官は、ユリカモメの大群が舞う東京湾中央防波堤の埋立地から都心を眺め、その街が蜃気楼のように見える、と語る。たとえ戒厳令が布かれ、戦車が街中を闊歩してもなお続く強固な日常が、シュールな光景として描き出される。
図5
図5―『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』より、半径1Hの街(出典:『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』パンフレット(東宝株式会社、S59)、(c)高橋/小学館・キティ・フジテレビ)

そしてこのモチーフにおいて、押井の監督作の中で『パトレイバー2』は、『パトレイバー』の第一作目とではなく、むしろSFスラップスティックである『うる星やつら』の劇場版第二作、『ビューティフル・ドリーマー』(一九八四)と対になっている。ここでは、主人公の高校生カップルが同居する郊外の住宅を中心に半径一キロメートルの街が円形に切り取られ[図5]、壊れたレコードのように永遠に同じ日を繰り返し、なおかつガス・水道・電気・新聞といったインフラが変わらず供給されるという不条理な日常の反復が描かれる。日本のどこでもありうる住宅地でありながら、それは鋭く東京そのものを暗示している。押井の次の指摘は興味深い:

アニメーションというのは不思議なもので、「ここはどこだ」とはっきり言わないと、大体「そこは東京である」と思っちゃうんです。街の名前とかを特定しない、生活を描いているアニメーションはいっぱいあるわけです。『うる星やつら』をやったときは、最初は「友引町ってどこなんだ?」という。全然判らなかったんです。原作者に聞いた記憶はないけれども、たぶん東京なんだろうと僕たちみんな思っていたんです。(…中略…)
それは結構根の深い問題で、「なぜアニメーションのキャラクターというものはおおむね日本人ではないのか」「カタカナが多いのか」「なぜ髪が紫色だったり緑だったりするのか」ということで、おおむね同根の問題だ、という気がするんですよ。アニメの中のリアリティーというのは、普通の実写の作品のリアリティーとちょっと違うのではないか。
いつの時代のどこの話であるということは、特に断らない限り、実写というのは現代だということになるわけだけど、アニメの場合には、いつ何どきと特定しない限りは「いつかどこかで」と、それで成立しちゃう世界を綿々と作ってきた、たぶんその後遺症なんだろうと思います。
それ以外にも理由があるわけですけど。アニメというのは、もともとが抽象性から上がってきた話の世界なので、あらかじめ、「この世界は、現実の引き写しに似ているけれども、要するに引き写してあるけれども、全然違う世界である、借り物の世界なんだよ」ということを、観る人がどこかで承知の上で実際は観ている、本人が意識しているか意識していないかにかかわらず。(…中略…)
はっきり言えば、『ガンダム』であろうが『ヤマト』であろうが、それは僕は東京の物語だと見てきたんです★1。

リアルなディテールに乏しいマンガの世界は、特記なき限り東京である――これは現在の東京が、のっぺりとしたマンガの世界と近似してきていることの裏返しでもある。東京は東京として描出されるのではなく、むしろ、特別な場所的描写が成されない場合にそこが東京なのである。ゆえに、現在の東京の実状に親和する物語というのは、SFスペクタクルでもオカルトでもなく、半径一キロメートルの箱庭の中で展開されるような反復的日常の物語なのだと言える。実際、東京を舞台にした数多のマンガの中で、これまで「マンガの中の東京/都市」としてピックアップされてきたカタストロフ・SFモノは、あくまでマイノリティに過ぎない。圧倒的多数は日常的な恋愛を扱ったコメディー、いわゆる「ラブコメ」なのである。

ラブコメ都市東京
では、そのラブコメ・ジャンルのマンガの舞台をなす透明な東京は、どのような場なのか。
『うる星やつら』の原作漫画の作者・高橋留美子による『めぞん一刻』(一九八二〜八七)は、ラブコメの雛形的作品である。物語は、大学受験のために上京してきた青年が、下宿の管理人である若き未亡人を好きになるところから始まり、二人の関係の一進一退が、彼が卒業・就職して彼女と結婚するまで延々描かれる。舞台は「一刻館」という、時の流れに取り残されたような古めかしいアパートと、それが位置している「時計坂」という都内の架空の街であり、その周辺を出ることはほとんどない。台詞やト書きから場所が東京であることは特定されてはいるが、絵の上ではひたすら日本のどこでもありうるような街並みが描かれ、ほとんど徹底的なまでに東京の固有性は捨象されている。
そこでは、作品のファンタジーは都市や街にではなく、特異な隣人たちや美人の管理人とのプライバシーを欠いた半同居生活という、あくまでアパート内部の極小的な空間のシチュエーションに集中されている[図6]。その意味では、フランス語を取り込んで題名化された「一刻館」そのものが、本作品の中心的機構であり、主役とさえ言える。昔の木造校舎のごとくそのファサードに冠された時計は、物語の始まる以前から壊れており、第一話から最終話までまったく動かない。物語の形式上始まりと終わりはあれど、その間は二人の仲の永遠とも思われる一進一退が繰り返されるというラブコメの構造が、そこに暗示されている。そうしたファンタジーを内に閉ざした極小箱庭空間と、その内外に流れる永遠の日常的時間が『めぞん一刻』の〈東京〉であり、風景や街並みから、状況あるいは他者へと実体が移されているところに、その特質がある。
図6
図6―『めぞん一刻』より、東京の景観と一刻館内の部屋(出典:高橋留美子『めぞん一刻』第3巻(小学館、S58)p4、(c)高橋留美子)

『めぞん一刻』において固有な景観が絵的に表現されるのは、決まって地方である。主人公たちがたまに旅行に出向いたり、里帰りしたときに、おそらくは作者が現地取材の写真を基にして描いた背景画によって、それは突然立ち現れる。あるいは、ステレオタイプ化された〈地方〉が絵に表現されることもある。作中では結婚を親に反対をされたあげくの駆け落ち先として、「北の果ての町」なる場所が、北風が吹きすさび、高圧線が連なるトタン壁の家並みとして、ツギだらけのはんてんを着てせき込みながら自転車を押す、という「怒濤の貧困生活」とともにイメージされている[図7]。逆にそうした固有な旅行先や〈地方〉の描写の存在によって、日常的な東京という場が枠付けられていると言ってもよい。
図7
図7―『めぞん一刻』より、「北の果ての町」(出典:高橋留美子『めぞん一刻』第12巻(小学館、S61)p201、(c)高橋留美子)

作品を支えるシチュエーションを、東京の特殊な建設・不動産事情をコミカルに強調して発生させたラブコメもある。代表例としては、『めぞん一刻』や『東京ラブストーリー』と同じく青年漫画誌の「ビッグ・コミック・スピリッツ」の連載作品で、バブルの土地狂乱が問題化した後に開始された、星里もちるの『りびんぐゲーム』(一九九一〜九三)があげられる。物語は、主人公の青年が勤務する零細会社が、移転先に決めていたビルが欠陥工事で傾いたという事情で彼のマンションの部屋を強引にオフィスにしてしまうところから始まる。これと連続して、ヒロインである新入社員の家出少女もまた、下宿先を地上げで失って主人公の部屋に居候しだす。以後、主人公はこの少女と恋仲になりそうになるも、毎日部屋に「出社」してくる同僚たちの存在によって関係の進展が阻まれるというパターンが反復され、またさまざまな住宅関係のトラブルによってこれに抑揚がつけられる。
『りびんぐゲーム』というその題名にも表れているが、この作品は前述のように、そうしたトラブルや東京の住宅事情を主要なモチーフに据えている[図8]。これはこの作品に限らず、東京を舞台にした多くのラブコメにおいて大なり小なり散見されるもので、たいていの場合、焦点の男女の同棲ないしは半同棲の背景として用いられる。すなわち、現在でも東京はカップル生成の場を担わされてはいるが、かつて華やかな街並みやロマンチックな夜景が果たしていたその機能は、今やネガティブな住宅事情などによって代替されているのである。ここにも、景観的なものから、シチュエーショナルなもの、マクロからミクロへの移行が現れている。
図8
図8―『りびんぐゲーム』より、東京の住宅事情のイメージ(出典:星里もちる『りびんぐゲーム』第3巻(小学館、1992)p111、(c)星里もちる)


イニシエーション都市東京
ラブコメにおける東京という場のもう一つ重要なアスペクトに、大学進学地というモチーフがある。これがもっとも強調的に扱われた作品としては、これも同じく「ビッグ・コミック・スピリッツ」誌の連載作品である江川達也の『東京大学物語』(一九九三〜)があげられる。東大一直線の受験生を主役とするこの作品において、東京と地方、さらに東京都内は、偏差値という数字によって強固に分節されており、これが強烈なフィルターを背景描画にも落としている。江川は写真を基にして渋谷や吉祥寺といった街の貌をそれぞれリアリスティックに描き分けているが、安田講堂や大隈講堂はレイアウトからして別格で、あたかも巨大なモニュメントであるかのように荘厳に描かれ、またドラマチックなシーンの背景として用いられている[図9、10]。東京タワーなどは上京の場面で描かれてはいるものの、絵に表現された存在感において安田講堂の足下にも及ばない。
図9
図9―『東京大学物語』より、そびえ立つ安田講堂(出典:江川達也『東京大学物語』第6巻(小学館、1994)p113、(c)江川達也)

図10
図10―『東京大学物語』より、大隈講堂を背にした抱擁シーン(出典:江川達也『東京大学物語』第6巻(小学館、1994)p16、(c)江川達也)

この大学の講堂の描かれ方は他の多くのラブコメにおいても認められる特別なもので、偏差値のヒエラルキーが都市風景の均質化に抗して、東京にいくつかの例外的に祝福された場所を、九〇年代以降も残存せしめていた希な事例としてみることができよう。あるいは受験生の視点を借りることが現在の東京を、高揚的効果をもった舞台として絵の上で用いる唯一の方法であったのかもしれない。
もっとも『東京大学物語』では、主人公が仮面浪人の末に東大に入学していくことと並行して、東京は栄光の地から、ドロドロなヰタ・セクスアリスと挫折に彩られた、シビアな通過儀礼の場へと様変わりする。上京は青年にとって一人暮らしの開始と同義であり、大学進学地というモチーフは同時に、初めて親元を離れて他者としての異性と対峙するというシチュエーションを包含する。この点にこそ、ラブコメにおける東京の機能的重要性が見出せるのであって、あらゆる制度的価値が失墜し、茫漠たる日常が続く現代において、仮にそうした状況が青年に課せられた最大の通過儀礼として機能しているとするならば、東京にかりそめにもラブストーリーが付与され続けられていることにはコマーシャリズムの介在を超えた要請を認めなければならない。
古典的な恋愛譚では身分制に代表される〈制度〉が恋の障壁を成していたのに対し、現代では「不倫」などの延命策を採る物語も含め――もともと「恋愛」とは不倫や反秩序以外の何ものでもなかったはずだが――旧来の〈制度〉を補填するかのように〈恋愛〉それ自体が権威的に奉られ、少なからず通過儀礼の試練の役割を担わされている(かくも恋愛結婚が大衆化されてしまった現在、〈恋愛〉もまた制度であることは言うまでもない)。それゆえ、現代のラブストーリーの内実は古典的な意味での恋愛物語と言うよりはむしろ、ビルドゥングスロマンと呼んだ方がはるかにふさわしいものが多くなっている。そしてそれら物語が「一億総恋愛願望時代」とまで言われる〈恋愛〉のエスタブリッシュメントを維持する機構を成し、その制度化の内に、実体を喪った〈東京〉の幻想が〈恋愛〉という別の幻想に紛れて残留せしめられるといった現象が発生する。(もっとも、〈恋愛〉もすでに死に体になりつつあるが)。
前出の『東京ラブストーリー』では、地方出身の主人公の青年に接近し、彼を振り回し、そして去っていったヒロインが、彼と最終的に結ばれる同郷の女性と彼との会話の中で、〈東京〉そのものと重ね合わせられている。

「三上に『リカは東京そのものだ』って言われた。そうだ、リカは東京だ。リカを手なづけることは、東京を手なづけることみたいな気がして……得意になっていた部分がぼくにはあったと思う。リカにのぼせてた時期があったことは認める。でもリカがぼくにとって、どれだけ必要なのか考えてみた。少なくとも、引き出しの中にそっと大切にしまっておく宝石じゃあないなと気づいた」
「リカさんは、あなたに夢中だったわ」
「わかってる、それに応えるように……無理をしてた。だけど、もう無理だとわかった。関口の部屋で泣き出してしまったあの日に、わかった。ぼくにはもう無理だ。ぼくはリカに負けたんだ」★2

現代のラブストーリーの中で生きた〈東京〉が描かれるとすれば、それは都市というよりはむしろ、他者としての女性によって体現されるのである。彼女はある時はベアトリーチェのごとく輝き、またある時はマクベス夫人のごとくけしかけて青年に通過儀礼を施し、やがて一人前の男として真に結ばれるべき女性と彼をまとめるという、まさにトリックスターの役割を果たす。〈華の都〉は〈華〉そのものによって代替されるしかなくなったのである。
景観や都市ヴィジョンとしてのマクロな貌を喪った〈東京〉は今や、日常の海の中で極私的な波を引き起こす他者のペルソナを憑代として、マンガの中で召喚され続けているのである。


★1―「NIFTY-Serve FANIME 『パト2』オフ―押井監督とオフ参加者との間の質疑応答の記録」(ニフティサーブ・FANFAN・データライブラリ「アニメフォーラム資料館」、一九九三)
★2―柴門ふみ『東京ラブストーリー』第四巻(小学館、一九九一)、40―41頁より台詞を抜粋。
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last update:12/2/1998