戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎

ライター・アーキテクト・スタイル

     ――磯崎新・八束はじめ・隈研吾

The Writer Architect Style: Isozaki, Kuma, and Yatsuka

下文は『群居』45号(オプコード研究所、1998)に寄稿した磯崎批評の転載である。

ライター・アーキテクト・スタイル


なぜ、そしていかに、流行は発生し、忘却されるのか。その実証的理論の構築に目下、取り組んでいる。一年ほど前には実験的に、それ自体が一種のブーム便乗・相乗出版でもある「エヴァンゲリオン・スタイル」という本をつくった。流行は本質的に様々な媒体を越境し、複合的なアマルガムの様相を呈する。これは建築意匠においても、例外ではない。
建築雑誌という、出版物のジャンルがある。基本的には建築のデザインに関わっている人か建築学生にしか読まれない、業界誌である。おしなべて売れ行きが低下してはいるものの、現在国内で五、六誌月刊・隔月刊誌が刊行されており、実売は多いもので三万、少ないもので五千部程度である。主な内容は建築家の文章とその新作建築作品の写真記事であり、設計に携わる読者はそこから建築意匠の流行のスタイルを読みとり、何らかの形で自作に反映させている。いうまでもなくそれは、流行を形成する機構を成している。
建築ジャーナルが形成する「流行のスタイル」というと写真に定着された建築の形態がまず想起されるが、その建築写真と抱き合わせで掲載されてる建築家の文章の方にも、明瞭なスタイルがある。むしろこちらの方が見えにくい分だけ根深く、かつ書き手である建築家のライフスタイルそのものまで規定するように働いてきた。本稿ではこちらの方を、その作用を中心に取り上げてみたい。
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一九九八年二月、一時期取り壊しの危機にさらされていた旧大分県立中央図書館が、リニューアル・オープンした。その設計者であり、また地元出身の建築家である磯崎新(一九三一〜)を記念する常設展を収めた美術館として、一三億を投じた耐震補強と洗浄を経てピカピカに再生されたのである。
展示の構成自体は、ごくオーソドックスなものである。主要作品の模型や透視図を、六〇・七〇・八〇・九〇と、年代ごとの部屋割りでクロノロジカルに並べている。既に巨匠であることを誇るかのように、小さなスケッチをそこかしこに走り描きしたトレーシングペーパーも、うやうやしく額に納められている。
しかし特異なのはむしろ、各作品ごとに付された解説のパネルの方である。その作品に関して建築雑誌などに発表された磯崎自身による解説文の抜粋が、畳くらいの大きさのモノリス然としたパネルを、細かい字でびっしりと埋めている。ロゼッタ・ストーンのごとくそびえる膨大な「自註」。それらを補足するために模型や透視図が配されているのではないかと錯覚させる転倒の観すら、そこにはある。加えて各部屋の出口に配された各年代の総合的な作品年表のパネルには、作品ごとの雑誌掲載記事リストが列記されている。作品によっては一〇も二〇もあり、八〇年代などは細かい字で四畳分のパネルに渡って連なっている。作品の数もさることながら、建築雑誌への登場回数が、まさに物理的なマスとして示されている。
さらに特徴的といえるのは、建築作品の部屋と並列して、年代ごとの「言説」の展示室が、これも六〇・七〇・八〇・九〇と四部屋設けられていることである。模型を収蔵しない分、建築作品の展示室に比べて小部屋があてがわれているが、そこには展示ケースに納められて、その年代に磯崎が著した本がずらりと並べられている。また壁面には「言説年表」と題し、雑誌寄稿文のリストが、これも同様に畳大のパネルを埋め尽くしてその量を誇っている。高校時代の作文までが展示されていることと相まって、あたかも文豪の記念館であるかのごとき様相すら、呈しているのである。
記念館が設けられるような小説家と異なる点があるとすれば、国内的に磯崎が、一般の人にはあまり有名ではないということである。たとえ文化に関心が高く、教養の深い人たちの間であっても、建築ジャーナリズムに接しているような種類の人たちの外では、その仕事はほとんど知られていない。来館者に配布される一般向けのチラシには、磯崎が、「その前衛的な作品によってのみならず、建築家としては異例な質と量の著作を通じて、世界の建築思潮に大きな影響を与えてきました」、と解説されている。少なくとも「前衛」が意味するところを厳しく問わない一般に対しては、ある程度正鵠を得た表現といえよう。問題はむしろ、日本人の欧米での活躍を喧伝したがる国民性の中にあって、華々しく世界的に作品をつくりつつも、建築デザイン業界の外では知られていないという、その知名度の強度な内向性にある。テレビに頻出した黒川紀章や安藤忠雄は例外的としても、武満徹やイサム・ノグチと比較すれば、そこには明瞭な格差が見出される。
このことは無論、日本に欧米におけるような文化的エリーティズムの土壌がないことに大きく起因している。日本に対してアンビヴァレントな感情を持っていると吐露してみせる磯崎自身、たびたびこの文化構造の違いに言及している。日本では美術館が建てられる際に建築家の名前が新聞――もともと日本には大衆紙しか存在しないが――で大きく取り沙汰されることもなければ、街のドームの設計者が市民のヒーローになることもない。確かに、そうした素地は不在である。
しかし、こうした背景的要因への集約は、しばしば対象そのものが内包している問題を隠蔽してしまう。建築家としては異例な量の本を出しながらも保たれている、磯崎の知名度の内向性は、磯崎の言説そのものに構造的に根ざしたものである。「言説」と記しているが、その実体は建築雑誌を中心に掲載された彼のエッセイや対談、及びそれらをまとめた単行本の総体のことで、日本の建築デザイン業界ではフーコーの訳本の影響か、特に彼のそれを「言説」と呼び慣わすようになっている(磯崎自身も、最近は自身の著作に対してこの言葉を使っている)。これは些末なことのようでいて、鋭く磯崎の著作の性質を表している。すなわちそれは、「思想」とも「哲学」とも「理論」とも「マニフェスト」とも「美学」とも「研究」とも呼べない、はなはだ曖昧なものなのである。ヴィトルヴィウスからヴェンチューリにいたる、影響力の大きな書物を残した建築家のそれとの決定的な違いも、ここにある。広い意味での「批評」が唯一、あてはまるかと思われるが、それでも「言説」という――「テクスト」なる単語も時折使われているが――一般的には耳慣れない呼称が定着しているところに、その性質を如実に物語るものがある。加えてフランス哲学の色濃い影も、そこに認めることができよう。

磯崎新の著作術
では、その「言説」の具体的な内容は何かといえば、次の五つの手法に沿って大雑把に分類できる。
(1)[解説]――建築内外分野の時事解説/業界通信
(2)[対談]――建築内外分野の人との対話の起こし
(3)[衒学]――建築史を中心的題材とした学説史/エッセイ
(4)[自註]――自身の建築作品の解説
(5)[宣告]――建築の終末論(後、不滅論)

これら手法に通底しているのは、ジャーナリズムに載る文章を大量に生産するのに、極めて適しているということである。
(1)[解説]は欧米の文献や雑誌の蒐狩をもとに、世界の最前衛の建築家たちの発言やエッセイの文章を引用・構成するスタイルで磯崎が「美術手帖」誌に展開した連載に代表される。これを一冊にまとめた『建築の解体』(一九七五、磯崎四三歳)という本の出版によって、彼は海外建築情報の紹介・解説の第一人者としての立場を獲得する。以後、[衒学]も多く含んだ『建築の地層』(一九七九、四八歳)を経て、数々の欧米の建築家の日本での展覧会に際してカタログに紹介文を執筆、これがさらに、『イメージゲーム 異文化との遭遇』(一九九〇、五九歳)という本になっている。後年には磯崎が海外で建築を設計した際の体験話などが、これに加わることになる。
(2)[対談]は磯崎がもっとも際だっていたところの手法で、彼が学生時代からさまざまな芸術・思想分野の人々と交際をもっていたことが、大きく効いている。加えて[解説]によって建築の先端状況を美術や思想とからめて語ると目された磯崎は、建築に限らず思想や美術などの雑誌で多くの対談にかり出された。これらは吉本隆明・高階秀爾ら各界の第一人者との対談を収録した『建築および建築外的思考』(一九七六、四四歳)、吉田五十八ら磯崎の二世代ほど前の建築家との対談を集めた『建築の一九三〇年代』(一九七八、四六歳)、国内外の批評家との対談集『ポスト・モダンの時代と建築』(一九八五、五三歳)、海外の建築家との対談集『建築の政治学』(一九八九、五八歳)、多木浩二との対談集『世紀末の思想と建築』(一九九一、六〇歳)、国内の若手建築家や建築史家との対談集『磯崎新の革命遊技』(一九九六、六五歳)、武満徹、荒川修作ら国際的に活躍する芸術家・建築家・キュレーターたちとの対談集『オペラシティの彼方に』(一九九七、六六歳)など、磯崎の著作を実に多くもたらすこととなった。一九九三年からはNTTをスポンサーに浅田彰と組んで世界的な建築家や哲学者、評論家を招聘しての国際会議を毎年執り仕切り、そのたびに会議録を出版している。
(3)[衒学]は磯崎が企画に参画した展覧会のカタログ等に寄せた解説、歴史的建築物の写真集等に寄せた論文や序文、書評、その他諸々のエッセイなどから成っている。パリにおける「日本の時空間―『間』」展のカタログの再録を中心とした『見立ての手法』(一九九〇、四九歳)、伊勢神宮の写真集に寄せた伊勢を巡る学説史や、ロンドンでの「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」展のカタログを再録した『始源のもどき』(一九九六、六四歳)などが、代表的なものである。いずれも古今の多くの建築書が参照されており、建築デザイン業界ではしばしば磯崎に対して「博識」、「博覧強記」、果ては「知の巨人」といった形容まで冠されてきた。一九九六年に磯崎が関わっていることを目玉に開催されたある建築展では、磯崎の「思考の宇宙」と称されて、彼の設計事務所や別荘の書架に納められていた蔵書千数百冊が展示物として引っ張り出されたりした。
(4)[自註]。建築家による自己の作品に対する言及は昔からなされてきたものであったが、磯崎において特徴的なのは、それがマニフェストや理論の、実践ないしは作例として扱われていないところにある(その点、大分県立中央図書館と対になる「プロセス・プランニング論」はやや例外的といえる)。「自註」といみじくも題されたそれらは、自身の作品の各部にアスタリスクを付け、[衒学]も導引して参照事項をペダンティックに列記した脚註のごときである。あたかも他人の作品を解析するような文体でつづることによって磯崎は、建築雑誌などへの説明文に、批評家に先回りして自身による「講釈」を増量する手法を編み出したのだといえる。これらは、『建築の修辞』と『手法が』(共に一九七九、四七歳)に集成されている。さらに『建築のパフォーマンス』(一九八五、五四歳)にいたっては、ジャーナリズムで国内外から論議の的となった「つくばセンタービル」に関し、さまざまな建築家や批評家の発言とそれに対する自身の応答をまとめて一冊の本にするという、[対談]と混成した編集術までが展開されている。
(5)[宣告の術]は業界にガンの診断を下し、これまでの方法論が無効であることを暗示するもので、もって特に学生の読者を強く惹きつける効能を付すものである。特に(1)〜(4)によって彼の立場が確立されるに従って、その宣告は極めて強力なものとなっていった。六八年の文化革命といった海外の先端的情勢を自身がミラノ・トリエンナーレの出品に際して遭遇した占拠事件を用いて生々しく報ずるなど、(1)〜(3)の手法を駆使しつつ、「建築の解体」「きみの母を犯し、父を刺せ」「日本の建築教育の惨情を想う」といった扇情的なコピーを弄する彼のエッセイは、「麻薬のように蠱惑的であった」と、当時学生であった建築家に述懐されている。少年期に体験した終戦時の焼け野原を、自身のトラウマとしてたびたび持ち出しながら磯崎は(当時「一四歳」であったことが、最近のエッセイでは強調されている)、「未来都市は廃墟である」といった予言者的な語り口によって、ほとんど新興宗教的な吸引力を持った終末論を、建築ジャーナリズム上で展開していたのである。前述した数多くの対談集の刊行も、何やら「教祖」めいた彼の存在の性格を、物語っていよう。
最初の単行本である『空間へ』(一九七一、三九歳)が出版社を替えて再版された際、「新版へのまえがき」に磯崎は、「私の意図は何とか当時の建築のせまい枠組みから逃れると同時にそれを破ることにあった」と記している。ところがそうした意図に出発し、現代美術や思想を引きつつ、まさに建築の枠を拡大しつつあるように内側からは見えながら、それは確実に「建築のせまい枠組み」を破るどころか一層強化する方向に働いた。彼は九〇年代に入って還暦を迎えると共に「かつて大きい物語であった《建築》をあらためて救出し、それを議論の核心に据えなおす」と宣言し、「建築」のゾンビのごとき不滅性を語って日本の建築デザイン業界に「大文字の建築」という流行語をもたらしている。
終末と永遠の接続。これは、第三帝国の手法である。ピーター・ドラッカーはファシズムが台頭した原因を、当時の「大衆の絶望」に求めているが、磯崎の「台頭」もまた、オイルショック以降今も続く建築家や建築学生の不安を背景としている。ナチスの建築では建築史上から古典主義を中心とするさまざまな輝かしい様式が参照され、思想的にはアーリア系を選良とする排他的なエリーティズムが唱導されたが、磯崎の「言説」の政治的構造はこれと極めて近接した側面がある。
そしてこうした磯崎の「言説」の傾向は、その著作術に倣った後の世代の建築家たちのそれに、さらに露わな反映をみることができる。

例1――八束はじめ
八束はじめ(一九四八〜)は磯崎の設計事務所に勤めた後に独立した、いわば磯崎直系の弟子筋にあたる建築家である。その処女出版である『建築の文脈・都市の文脈――現代を動かす新たな潮流』(一九七九、八束三一歳)は、欧米の建築家や批評家の文章の邦訳アンソロジー集であり、「『解体』から『文脈』へ」と題されたそのまえがきにも表れているように、磯崎の『建築の解体』の編集構造をほとんどストレートに踏襲している。
ただし西欧思潮の植民地における[対談]の場を家元である磯崎にほぼ占有され、[自註]を書こうにもその素材となる建築作品の量が極めて限られている状況にあって、八束は建築家と同時に批評家を名乗りつつ、[解説](八束は「パラフレーズ」と呼ぶ)と[衒学]とをよりアカデミックな方向へと延長させることとなる。とりわけそれは、マンフレード・タフーリの『建築のテオリア』(一九八五、八束三七歳)や『球と迷宮』(共訳、一九九二、八束四三歳)といった翻訳の仕事に、結実している。
彼は、磯崎と同じくフランス哲学を中心とする思想をふんだんに参照しつつ、『逃走するバベル』(一九八二、三三歳)、『批評としての建築』(一九八五、三六歳)、『空間思考』(一九八六、三八歳)といった、[衒学]にあたる「言説」をつづりながら、一九二〇年代を中心とする近代建築の展開期へと、その著作の題材を集中させていく。『近代建築のアポリア』(一九八六、三七歳)や『テクノロジカルなシーン』(一九九一、四二歳)が、これにあたる。これらは二〇世紀初頭にめざましかった建築の展開のプロセスに焦点をあてつつ近代建築史を振り返ったもので、近代建築史のリミックス版の趣を成している。彼自身が『アポリア』のあとがきに記しているようにそれらは、「少なくとも横文字をパラフレーズしながら縦に直しただけのものではない」。
この傾向はさらに進み、こうした八束版近代建築史序説を出した後に彼は、『未完の帝国――ナチス・ドイツの建築と都市』(共著、一九九一、四二歳)や『ロシア・アヴァンギャルド建築』(一九九三、四五歳)、さらには『メタボリズム』(同じく磯崎の事務所に勤めていた吉松秀樹との共著、一九九七、四九歳)と、題材を建築史上の個々の事象や運動にまで絞り込んでゆく。これは一次資料から各論へ、各論から総論へと研究を構築してゆく専門の研究者と、ちょうど逆方向の進み方をしている(太田博太郎という稀有な例外もあるが)。あるいは書下ろしの割合が増えているあたりも含め、批評文も書く建築家から、歴史家への転向の過程を、そこにみることができるかもしれない。
留意すべきは彼の、建築史上からの題材の選び方である。いずれも建築が異様に盛り上がった、いわば黄金期のようなものに注視しているのである。[宣告]を使う代わりに彼は、過去の栄光を召還する。ちょうど彼が主要な題材の一つとした、ナチス・ドイツのように。彼は『メタボリズム』のまえがきで、「日本の建築文化を途方もない健忘症が覆っている」とし、「メタボリズムがいまでも歴史ではなく、現在に属している」と謳っている。
磯崎自身が『ロシア・アヴァンギャルド建築』に対する書評で指摘してもいるが、運動の根源への激しい回帰的なまなざしは、その展開の死滅期に突如再燃する。逆にまた、その回帰に専門化することによって八束は、超えがたい家元との共存を図ったのだともいい得る。

例2――隈研吾
隈研吾(一九五四〜)は大学を出て五年ほどは大手設計事務所やゼネコンの設計部に勤務していたが、建築家として事務所を開設する前年に、給費留学生としてニューヨークの大学で客員研究員生活を送るという幸運を得ている。この期間に彼は、アメリカのビッグ・ネーム的な建築家たちに多くのインタビューを取り付け、これを帰国後に国内で『グッドバイ・ポストモダン――11人のアメリカ建築家』(一九八九、隈三四歳)という本にしている。いわば磯崎流[対談]の実践であるが、対談ではなく、インタビューであるというところに、家元との格差が見受けられる。この研究生という立場を利用した留学先でのインタビュー集以降、やはり家元に場を寡占されてか、現時点では対談集を集成するにはいたっていない。
この留学期間中に彼は、帰国直後に刊行されて彼の処女出版になるとことろの『10宅論』(一九八六、三二歳)を書下している。これは後にちくま文庫に収録されていることにも表れているように、ある程度一般向けを装って書かれている。その「論旨」は、もはや住宅は建築にとって重大な対象たり得ず、建築家のつくる住宅はファッションの一種として消費対象に惰しているといったものである。これは、磯崎が他の批評家と一九五八年の時点で建築雑誌で書いた「小住宅ばんざい」というエッセイによって既に、業界内的には決定的に批評されてしまった観のある状況であるが、これをバブル期に百花繚乱したキッチュな商品化住宅(これも、石山修武によって既に「ショートケーキ・ハウス」と批判されていた)と並列してカタログ化することによって、建築デザイン業界から眺めた日本の住宅状況を、一般を想定した読者に解説する体をとっている。
このフォーマットはさらに、ちくま新書より刊行した『新・建築入門――思想と歴史』(一九九四、四〇歳)でも反復され、ここでは教科書的な世界建築史を入門書風に編集しつつ、やはりフランス哲学が引かれて建築の終末論が語られるという、[解説]と[宣告]の合わせ技が用いられている。磯崎と、さらには八束との棲み分けを強いられる隈は、[宣告]をさらに砕いて[解説]するという方法論を、特に建築ジャーナリズム上ではとっており、磯崎がその初期に導入した偽悪的な文体が踏襲されている。いずれも建築雑誌や建築事象事典的な本への寄稿を集成した『建築的欲望の終焉』(一九九四、四〇歳)や『建築の危機を超えて』(一九九五、四〇歳)は、その書名にも表れているように、手を変え品を変えた[宣告]のオンパレードとなっている。
『建築の危機を超えて』の中で隈は、輝かしい未来への夢を描いて建築学科に進学した直後のオイルショックの体験を、若き日に刻印された自身の建築に対する絶望として述懐してみせている。磯崎の持ち札ともいえる「一四歳」の時の終戦日の焦土と比べれば、はるかに矮小化されてはいるが、正確な手法のトレースといい得る。

隈は、近い将来建築家はある種のメディア・デザイナーにならざるを得ないと発言している。小住宅を設計するよりも、本を書いた方がよほど有効であるといい、右記のように実践してもいる。建築ジャーナリズムなどの印刷媒体による建築の作品・流行・思潮の伝達が実物によるそれを量的に圧倒するに及んで、「言説」によるメディアの獲得が建築家が名を売る手段の一つとして極めて大きなものとなっていることは、おそらく間違いない。磯崎のヘゲモニーも、かくして築かれたものであろう。
ヴィトルヴィウスの『建築十書』の頃から、建築家が書物を著す事例はなくはなかった。特に近代に入ってからは、近代建築の持つ倫理的ともいいうる理念性から、史家・批評家のみならず、建築家がイデオローグとしてマニフェストを多分に含んだ書物を出版するということが急増した。しかし近代建築がその理念を喪失していったときに一つのスタイルと化したように、建築家の「言説」もまた、メディアの獲得が目的化されるにおよんで、量産のためのスタイルに転向したのである。
しかしスタイルと化し、コピーが出回りはじめるということは、終わりが近いということに他ならない。その意味で八束と隈は、極めて正しく磯崎新を消費しているのである。
鉄筋コンクリート造の旧大分県立中央図書館は、磯崎の名声が成せしめたその延命補強によっても、あと三〇年保たせることは難しいとされている。

ホーム作家寄稿
(c) Kaichiro MORIKAWA
last update:8/1/1997