戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎
アキラと丹下健三の神殿
Kenzo Tange's Temple in AKIRA
アキラと丹下健三の神殿
丹下のマスタープランのごとく、東京湾上に構築されたネオ東京。翌年に第二次東京オリンピックを控えたそのメガロポリスを描いた大友克洋の漫画「アキラ」に、代々木の国立屋内競技場(1964)に酷似した建物が登場する。オリンピックのプールとしてではない。それは平安時代のような装束をまとった老婆を教祖に頂く、新興宗教の本殿なのである。外観は近代建築であるが、中は寝殿造の御所のようになっており、白装束の神官たちが奥に控えている。ある意味で、これは丹下の造形の性格を明快に表しているといえる。
「アキラ」は物語的にいえばあくまで大衆向けのマンガである。その中で、国立屋内競技場の造形がそのまま新興宗教の本殿のイメージとして転用され得たということは、その造形が万人受けするモニュメンタリティと宗教性を帯びていることの証といえる。少なくともある種の強力なシンボル性があることは間違いない。
丹下健三のこれまでの約五十年間にわたる建築設計に共通してみられるのは、わかりやすいヒロイックな造形と、それを支える優れたプロポーション感覚である。それはいわば、丹下のいう「民衆」にとって最も「建築作品」として享受しやすい性質のデザインであり、このことは丹下が庁舎等の大型公共施設の設計を多数依頼されたり、おびただしい数の文化関係の賞を受賞したりしていることに表れていよう。
この丹下のヒロイックな造形と、時代の波長が最もシンクロナイズしたのが1960年代、いわゆるゴールデン・シックスティーズであり、その時代のヒロイックな熱気を凝縮するオリンピック競技の中心施設の設計という、またとない幸運な巡り合わせが、代々木の国立屋内競技場を、丹下にとっての最高傑作となるであろう作品たらしめたのだといえる。
この時代の波長を表現の中にある程度共有していた作品として、ルイス・カーンのペンシルヴァニア大学リチャーズ医学研究所(1961)、ハンス・シャロウンのベルリン・フィルハーモニック・コンサート・ホール(1963)、ポール・ルドルフのイェール大学建築芸術学部棟(1964)、エーロ・サーリネンによるゲートウェイ・アーチ(1964)などがあげられるが、構造と表現の関係に着目すれば、丹下はサーリネンのそれに最も近かったのではないかと思える。代々木の国立屋内競技場の構造がイェール大学のホッケーリンク(1958)からとったものであることはよくいわている。香川県立体育館等にも強く表れているが、サーリネンのTWA等の作品に見られるように、張りつめた力の流れが表現として形態化されている。
しかし、丹下のデザインはサーリネンほどのロマンティシズムには至ることはなく、ルドルフほど過剰にモニュメンタルになることはなかった。また、構造やシステム、テクノロジーの表現も、フライ・オットーやメタボリスト達ほどラディカルに成されることはなかった。丹下の作品の中では最も前衛的といえる山梨文化会館も、メタボリズムの作品というにはあまりにモニュメンタルである。いわば、当時のデザインの多くの要素を取り込みつつ、すべてをほどほどのところでおさえ、万人受けされる段階にとどめている。ユートピア的な東京計画を描いてみても、ル・コルビュジエの「輝く都市」とアルジェ計画を東京湾上に展開したものであって、バックミンスター・フラーのマンハッタン・ジオデシックドームほど飛び抜けたことはしない。ここに、丹下の作家としての長寿の秘訣と同時に限界があるように思える。
実際、丹下は真新しい形態には手を出そうとしていない。代々木でも、メインの競技場は前述したようにサーリネンのホッケーリンク、及びル・コルビュジエのブリュッセル万博フィリップス館(1958)から持ってきており、付属体育館の渦巻き状の造形も、ブルース・ガフのバヴェンジャー邸(1950)のそれである。ただ、この大小二つの造形を対置がもたらす運動性は、当時としては斬新なものであったといい得る。こうした側面において、この作品はヒロイックでありながら、同時に極めてマニエリスティックな性格を持っていたといえよう。
実際、丹下が60年代の時点で最も新しかったのは、その引用の手法であったかもしれない。香川県庁舎(1958)における木割を意識したコンクリート梁は、単なる伝統的表現というよりはカーンのリチャーズ医学研究所に先立つ歴史的引用としての側面が強い。そして、代々木の競技場でも、伊勢神宮の千木と棟持柱を連想させる妻に、民家のそれを思わせる棟の造形がなされている。かつて伝統論争なるものが闘わされた際に丹下は弥生、縄文の二つの名のもとに伝統の原型を分け、「もののあわれ」や「風流」に通ずる日本的な洗練の形式としての前者を批判し、もっと原初的な力に富んだディオニソス的な造形としての後者を唱導した。その時の言説で丹下が縄文的なる造形のモデルとして引き合いに出したのが竪穴式住居であり、伊勢であり、民家であった。代々木の競技場の断面は竪穴式住居のそれによく似ている。カーンがローマやサン・ジミニアーノに求めたものを、丹下は縄文的なるものに見出したのだといえる。
しかしこうした手法もその後は、ポストモダニスムも終わろうとしていた1991年の新東京都庁舎まで、あからさまに用いられることはなかった。ポストモダニズムが前線に出てくると、あたかも新しくあることを避けるようにして、敢えて引用をやめてしまったのである。そして丹下の真骨頂がプロポーションとヒロイックな造形にある以上、丹下の頂点がゴールデン・シックスティーズでしかあり得ないことはおそらく間違いない。
同世代ともいえるサーリネンの作品が60年代半ばにして途絶え、ルドルフの建築学部棟も火災によってダイナミックな吹き抜け空間を細かく区画されてしまったことは象徴的である。そして1973年になってようやく完成したヨーン・ウツソンのシドニー・オペラハウス(コンペ:1956)というグランド・チャンピオンを最後に、こうした観光名所的な造形の時代は終わってしまった。そしてこの終焉とともに丹下は世界の建築の前線から完全に退いてしまったといえる。もともと最前線に立つことはなく、ラディカリズムを避ける建築家ではあったが。
ただし、さまざまなスタイルをシンボリックで観光名所的な造形に仕立て上げてしまう腕は秀逸である。これが最後に狂い咲きしたのが新都庁であり、コンペの他のどの案が実施されたとしてもこれほど観光客を引きつけはしなかったであろう。もっともこの時代になるとさすがに「民衆」にもある種の錯誤感を抱かれたのか、「バブルの塔」と称されたり、ゴジラに攻撃されたり、その崩壊の光景がさまざまなところで描かれたりした。これほどイメージの中で破壊の対象になったのも、ひとえにそのヒロイックな外観がもたらす強力なシンボル性によるものだといえる。
「アキラ」に登場する国立屋内競技場も、最後にはそれが崩壊する様が描かれる。その破壊が大きなカタルシスをもたらすところにも、丹下の造形の特徴が端的に表れているといえよう。
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(c) Kaichiro MORIKAWA
last update:3/7/1997